オウム元信者の中田清秀が長男を日本刀で切りつけた殺人未遂の容疑で逮捕された。
中田清秀の顔写真や事件場所、山口組との関連や生い立ちをおう。
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事件概要
12月29日午後9時50分ごろ、
オウム真理教の元信者の中田清秀が自宅2階の長男(40)の部屋付近で
「殺すぞ」
などと言いながら刃渡り約50センチの日本刀で腕や太ももを切りつけ、
腕や太ももに怪我をさせ現行犯逮捕された。
中田容疑者は指定暴力団山口組系組長からオウム真理教信者となり、教団の警備役をしていた。
名前:中田清秀容疑者
年齢:70歳
生年月日:1947年11月3日
出身:名古屋市北区
住所:岐阜県高山市西之一色町
職業:古物商
オウム真理教の元信者、教団の警備役
家族:妻と長男の3人暮らし
凶器となった日本刀は古物商で取り扱っている商品とみられる。
中田容疑者は事件当時酒に酔っていた。
事件現場は?
中田清秀容疑者の自宅
岐阜県高山市西之一色町
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中田清秀と山口組とオウム真理教
「オウムには、穏健派も武闘派もありません。
すべて一様です。
わたしなどは、いってみれば、全宇宙オウム連合麻原一家のただの若い衆です」
オウム真理教建設省・中田清秀
中学2年のときに父親が銭湯の事業に失敗し、各地を転々としながら貧しい生活を送った。
北海道のアパートで一人暮らしをはじめた中田は、そこで暮らしていた暴力団組員の影響を受け、暴力団事務所に出入りするようになった。
最初に飛び込んだのは在日系暴力団柳川組。
初代組長は梁元錫(通名:柳川次郎)、2代目は康東華(通名:谷川康太郎)である。この暴力団は終戦直後在日愚連隊として闇市でトラブルを繰り返し”殺しの軍団”と呼ばれた。
この実力を認めた山口組三代目組長・田岡一雄は、柳川組を傘下組織に入れ、日本全国へ勢力拡大をはかっている。田岡一雄が闇市で暴れる在日朝鮮人を取り締ったという美談を未だに信じる者も多いが、実際は虚像に過ぎず脚色である。
在日闇社会に入った中田は、そこで高利金融や土建業をシノギとしながら修行を積んだ。柳川組解散後には、小車誠会清田会の会長代行となり、秀政一家を率いるまでになった。
「いつもは『ヒデ』と呼ばれ、人付き合いもいいんだけど『俺はいつ死んだっていいんだ』と言うのが口癖で、一度思い込むと何をやるかわからんところもあった」(中田を幼少から知る暴力団関係者)
「10メートル先の一斗缶に5連発で5発とも命中させた」
けんか強さと短銃の腕には定評があったが、1984年に銃刀法違反で逮捕され1987年まで広島刑務所に服役した。
引用:「日刊スポーツ」(95年6月29日朝刊)、「サンデー毎日」(95年5月14日)より
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出所後の1988年、中田は神奈川県丹沢の集中セミナーに参加し、オウムへ入信した。
繁華街で布教のビラをまくなど、中田の熱心な布教活動を見て暴力団は煙たがるようになったという。
そして組幹部は中田に
「組をとるか、オウムをとるか」
と迫ると中田は迷わずオウムを選び組を破門された。
この時までに中田は前科9犯を犯していた。
1990年3月30日に出家。
ホーリーネームは「ジョーティス・パタトヴァチャ・ウパスータカ」。
名古屋の実家の借地権や北海道・小樽の所有地を寄贈。
時価4000万円の横山大観の絵を3000万円で売り払って、その金も教団に布施した。
引用:村井秀夫刺殺事件の真相を追って
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